寺格のひとつです。
もともとは、国から、市民と田畑をもらって独自に小さな自治区として認められたお寺だよ。
今では、国が密接に保護・管理している寺院を指します。
官寺(かんじ)とは
官寺とは、国家の監督を受ける代わりに国家より経済的保障を与えられた寺院。
- 官寺① 国が作り監理・運用したお寺
- 官寺② 天皇家・貴族の私寺を国が保護したお寺
中世以降は、幕府が特に保護・帰依した禅宗の寺院を官寺と呼びました。
『官』という字は、国家の機関。宮廷・役所。政府。宮廷や政府に勤めるもの。役人。の意味だから、国のお寺と考えても差し支えないかもね。
あと、①は②に含まれているね。
官寺① 国が作り監理・運用したお寺
官寺とは、封禄制度という、古代の貴族への制度の一つである『食封』という制度にて運用された寺です。
この食封とは、国が貴族にお金を出す代わりに、市民と田畑を付けて運用させ、自治していく制度でした。
食封(じきふ)は、中国から渡ってきた制度です。
中国では春秋戦国時代の『周』『漢』でつくられ、南北朝時代以後に制度が整備されました。
日本では、大化2年(646年)の「改新の詔」で初めて登場します。
貴族と同等の身分を与えられたという意味でとても身分の高いお寺です。
大官大寺(最高位の官寺)
この『食封』制度にて運用されたのが、百済大寺(後の大官大寺)です。
舒明天皇11年(639年)から造営の始まった百済大寺が天皇家の発願による最初の官寺であり、奈良県桜井市の吉備池廃寺が寺跡とされています。
天武天皇(てんむてんのう)の時代に移築・改称され大官大寺となりました。
大官大寺は飛鳥・藤原地域で建立された古代寺院の中では最大の寺院でした。
その後、和銅4年(711年)に火災により全て焼けてしまっています。
しかも、建設途中であり、金堂と講堂は完成、塔本体は完成していたのですが、中門、廻廊はまさに建築途中であったと言われています。
国分寺(こくぶんじ)
741年(天平13年)に聖武天皇が仏教による国家鎮護のため、当時の日本の各国に建立されました。
それが、国分寺です。
国分寺は、国分僧寺(こくぶんそうじ)と尼寺である国分尼寺(こくぶんにじ)に分かれており、基本的にはペアで日本各地に建造されました。。
また、国分寺の中で総本山となるのは奈良であり、僧寺においては、奈良 東大寺、尼寺においては、奈良 法華寺になります。
国分寺も、天皇より、僧寺には封戸50戸と水田10町、尼寺には水田10町が渡され、自治した記録があります。
官寺② 天皇家・貴族の私寺を国が保護したお寺
天皇や貴族の私寺を、国が保護した寺です。
国が建立したのではないため、私寺の一面が強く、官寺①のお寺は国からお坊さんが派遣されたりしていますが、官寺②については、その寺によって個性があります。
定額寺(じょうがくじ)
定額寺とは、奈良〜平安期に官大寺、国分寺・国分尼寺の次に位置づけられた寺院です。
定額寺の多くは元は皇族・貴族・豪族などが建立した私寺であったものがほとんどでした。
特に、延暦年間(782~806年)の間は、勝手にお寺を建ててはいけなかったため、建立したお寺をこの定額寺として申請することで、取壊しを免れたと考えられます。
平安後期以降はその名前は無くなってしまったようです。
勅願寺(ちょくがんじ)
勅願寺とは天皇・上皇の発願により、国家鎮護・皇室繁栄などを祈願して創建された祈願寺のことで、寺格の一つ。
寺が創建されてから、勅許によって「勅願寺になった」寺も数多い。
また勅願寺になれば寺領が得られることもあり、戦国時代頃からは寺の側から働きかけて勅許をもらうという例もあった。
大官大寺や国分寺、定額寺も天皇・上皇の勅願により建立されたものがあるため、これに含まれる。
五大官寺
平安時代の畿内五つの官寺
- 東大寺
- 興福寺
- 延暦寺
- 教王護国寺(東寺)
- 園城寺
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