京都駅を出て西へ進むと、こんなところに御堂があるのかと驚きます。
しかもそれが実は、弘法大師 空海と所縁があり、
高野山や成田山にならぶ三体不動尊の1体がいらっしゃる
というのですから驚きです。
また、新選組ともかかわりがあるらしいのです。
今回は、そんな不動堂明王院(霊石不動堂)をご紹介します。
こんなところに、弘法大師の所縁のあるお寺があるなんてびっくり!!
- 弘法大師 空海 所縁の地
- 東寺の鬼門の守護
- 弘法大師作の三体不動尊の一つ
- 新選組 まぼろしの屯所
基本情報
開創:弘仁14年(823年)平安時代
開創者:空海(弘法大師)
山号:不動堂
宗派:西山浄土宗
『ふどうどう』じゃなくて、『ふどんどう』なんだ。
所要時間
目安:5分
由来
はじまり
平安京の鎮護のため国の一大プロジェクトとして、官寺である東寺(教王護国寺)の建立が行われました。
弘仁14年(823年)に真言宗の宗祖である空海(弘法大師)へ、当時天皇であった嵯峨天皇よりこの東寺を任されることになったのです。
この東寺からみた鬼門の位置を守護するため、弘法大師は霊石から不動明王像を彫り出します。
これを祀ったのが始まりとされています。
不動明王像(弘法大師)
弘法大師は、東寺の鬼門にあった霊石で不動明王像を彫りあげました。
この、不動明王ですが、現在は見ることができません。
これは、弘法大師が人の目に触れるのを嫌い、像を石棺に納めて地中の井戸深くに安置しているからです。
今でも、この地の井戸の底に眠っています。
不動明王の霊力
寛平十一年(899年)当時の天皇である宇多天皇が、譲位(生きているうちに天皇の位を譲ること)し、法皇となった際に、この地に東七条御所(亭子院)を作られました。
その際に、この不動明王のことを知り、井戸より取り出させようと命じたのですが、不動明王の霊力のため井戸の中の不動明王を見ようとすると目を悪くしてしまう者が多くでてしまい、ついには不動明王を取り出すことが出来なかったのです。
目がーーーー
東七条御所(亭子院)
東七条御所とは、退位したため作られた御所です。
池の中に亭子(東屋:庭や公園などに設けられた、柱と屋根だけの休憩用または眺望用の小さい建物)を設けていたことから「亭子院」と呼ばれています。
西洞院大路の西側、左京七条二坊の十三町十四町に位置した(現在の京都市下京区油小路通塩小路下る南不動堂町近辺)
東西に二町(約220m)南北に四町(約440m)の敷地面積だったそうです。
霊石不動明王
宇多法皇は、このことから、井戸を封じ以後何人も覗うことを許さず、大きな御堂を建て『霊石不動明王』と号し(名付け)祀りました。
現在の御堂
宇多法皇により、建てられた御堂は、室町時代の応仁の乱(応仁元年(1467)~文明9年(1477))の中で亭子院を含めて焼けてしまいました。
しかしながら、井戸の底に安置されたまま信仰厚く、再建され、江戸時代 明和元年(1764)の11月に改築修理されました。
宗派
宇多法皇により御堂が建立されたため、当初、宇多法皇と仁和寺に縁があったことから、仁和寺の専属道場となっていました。
江戸時代 天明2年(1782)に西山浄土宗に属して今に至っています。
新選組 まぼろしの屯所
この不動堂明王院、新選組の幻の屯所とも言われています。
なぜ幻かというと、屯所としての建物が残っておらず、この辺りで屯所として利用した期間も短いとされ、資料も少なく特定できない為、幻の屯所といわれています。
ただ、屯所の大きさは100㎥くらいあり、この辺り一帯にあったことは確かなようです。
まぼろしですね。
境内
御本尊
本尊である霊石不動明王像は、現在も井戸の底に封じられているため誰も見ることが出来ません。
一刀三礼(一度刀を入れる度に何度も拝むこと)し掘り出された不動明王像は、弘法大師(空海)によって彫られた不動尊のなかでも三体不動尊と呼ばれております。
弘法大師の三体不動尊
- 高野山波切不動尊
- 成田山不動尊
- 霊石不動尊
御前立
御本尊は、現在みることはできないため御前立として御本尊と同じ不動明王像が祀られています。
また向かって右側には、この御堂のはじまりと関係のある弘法大師像。左側には、修験道の開祖である役行者像が祀られています。
- 中央 御前立 不動明王像
- 右 弘法大師(空海)像
- 左 役行者(役小角)像
天井
授与所
向かって左側。
水子地蔵尊
向かって右側。
拝観案内
拝観時間
24時間
拝観料
無し
年中行事
毎月28日 護摩焚き
駐車場
無し
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