円山応挙(まるやまおうきょ)とは

神社仏閣基礎

円山応挙まるやま-おうきょ とは 江戸時代中期の代表的な画家

京都を中心に活躍しました。

伊藤若冲、池大雅いけのたいが、与謝蕪村など多くの絵師が活躍した時代の中で

圧倒的な人気を得ていたのが、円山応挙です。

平安人物志という何でもランキングがあったのですが、画家の部の一位に輝きます。

画風の特徴は、写実的だということです。

それまでの東洋画の中に、西洋の遠近感を取り入れているのがわかります。

詳しく説明していきます。

参考画像:紅葉に孔雀図 西新井大師蔵
きつねくん
きつねくん

孔雀図は、円山応挙がその名前を世に知らしめる前から描いている題材だけど、この白い孔雀は特に好きです。

東京の西新井大師にあります。足を運んで実物をみてください。

基本情報

江戸時代中期 享保18年- 寛政7年(1733~1795)

62歳で亡くなりました。

幼名は、藤原 岩次郎 のちに 源 主水と名乗りました。

  • 夏雲
  • 雪汀
  • 一嘯
  • 仙嶺
  • 僊斎
  • 星聚館
  • 鴨水漁史
  • 攘雲
  • 洛陽仙人

という名前で絵を描いていました。

京都府亀岡市あたりに生まれ、農民の出でしたが、絵ばかり描いていたので、次男で家督も継げないことから奉公に出され、さらに行った先のお寺でも絵ばかり描いていたというのですから相当なものです。

相当に絵を描くことが好きだったんでしょうね。

年表

応挙を語るには、4つの時代に分けて考えるのが良いでしょう。

  1. 修業時代・・・眼鏡絵などを通して西洋、東洋の技法の違いを学ぶ。
  2. 円満院時代・・・スケッチをして写実的な絵を自分の画に融合する。
  3. 三井時代・・・屏風など大きな絵を描くようになり、名を挙げる。
  4. 円山派時代・・・弟子が集い、円山派(工房)として障壁画(建物の壁、襖絵)の仕事をする。
きつねくん
きつねくん

以下詳細に説明するよ。

年代出来事説明
享保18年
1733年
6月12日
丹波国南桑田郡穴太あなお村出生
現在:京都府亀岡市曽我部町穴太
丸山藤左衛門の次男として生まれました。
稼業は、農家だった。
元文5
1740年
金剛寺へ奉公に日常的に絵を描いており、農家の手伝いをしなかったと言われています。
そのため、食い口減らしで、お寺に奉公に出されてしまいます。
延享4~
1747年~
呉服屋へ奉公に
⇒玩具商 尾張屋 で雇われる
(修業時代)
お寺のお坊さんにと考えていたが、お寺でも絵を描いてばかりだったので、上京(京都)をし、玩具商 尾張屋で雇われました。
玩具商では、人形の彩色などをしていたようです。
寛延2
1749年
石田幽汀について絵を学ぶ尾張屋の店主 中島勘兵衛は、とても面倒見がよく、当時禁裡絵師(天皇に依頼されるなどする絵師)として有名だった石田幽汀を紹介し、絵の勉強をさせました。石田幽汀は、狩野探幽の流れを引く鶴沢派の画家です。
宝暦9年~
1759年~
京都風景の眼鏡絵を制作眼鏡絵は当時、オランダからの舶来品でした。
尾張屋店主の依頼により、京都の風景の眼鏡絵を応挙は制作しました。
 中国画家 沈南蘋しん なんびんの影響を受ける1731年 (享保16年)に中国から、長崎に渡ってきた沈南蘋しん なんびんは、日本の画家に多大な影響を残しました。3年ほど滞在し写生的な花鳥画の技法を日本へ伝えています。
円山応挙も、東洋の画は、ここから影響を受けていると言われています。
宝暦13年1763年
尾張屋が出入りしていた宝鏡寺と係りが深くなる宝鏡寺(現:京都市上京区寺之内通堀川東)は、人形寺と言われています。
尾張屋から人形を購入するなど、深い係りがありました。
逸巌理秀尼(桜町天皇の妹)と、その御局(侍女役を務める宮廷の女官)だった蓮池院尼公に取り立てられ、援助を受けました。
明和2年
1765年
圓満院えんまんいん 門主 祐常ゆうじょうとの親交が始まる
円満院時代)
圓満院(滋賀県大津市園城寺町)という門跡寺院もんぜき-じいんつまりは、天皇家の所縁のある寺の住職である祐常ゆうじょう和尚というパトロンがつきました。祐常とは、五摂家の一つ二条家から出家した人物です。
明和2年
1765年
「雪松図」を描き上げる「雪松図」(東京国立博物館蔵)
初期の応挙の作品は、日本の伝統的な技法をそのままに書き上げています。応挙の代表作品で国宝として名高い「雪松図屏風」と比較すると、雪や松の葉の生え方などが、伝統的な書き方であることが特徴的です。
明和3年
1766年
名を「応挙」と改名銭舜挙せんしゅん-きょ(中国宋末 – 元初の画家)に応ずるという意味。つまり、中国の偉大な画家 挙さんに見合うように、画を精進する強い意志を名前として付けたと考えられます。
明和5年
1768年
「七難七福図」を描き上げる「七難七福図」(相国寺承天閣美術館蔵)
天災巻、人災巻、福寿巻の三巻構成。仏教の中でも、任王経に記載のある人の七難七福を、民衆に伝えたい。言葉では伝わりにくく、画が欲しいと祐常ゆうじょう和尚より依頼があり、3年ほどかけて完成させました。
それまでの歴史の中では、仏教画は、地獄と天国のような想像上のものを描く作品が多いが、この作品は人の世での地震、洪水、盗賊、追剥などの日常にあることを描いています。
明和8年
1771年
「牡丹孔雀図」を描き上げる「牡丹孔雀図」(相国寺承天閣美術館蔵)
応挙の花鳥図の初期の一枚。
孔雀の東洋の技法が残っている。年代ごとに比べると孔雀の描かれ方が違い面白い。
安永元年1772年「大瀑布図」を描き上げる大瀑布図(相国寺承天閣美術館蔵)
瀑布とは、滝のこと。祐常和尚、お寺の庭は広かったが滝がないため、応挙に依頼しました。
この大瀑布図、大とついていることからわかるように、長さ縦362.8㎝ 横144.5㎝の巨大な水墨画で、迫力がある作品になっています。
京都新興勢力商人との取引が始まる
(三井時代)
今でも続く、日本三大財閥の一つ三井財閥(みついざいばつ)を含む京都の新興勢力の商人たちと取引が始まります
応挙唯一の国宝である、「雪松図屏風」を含めて、三井記念美術館に多くの作品が残っています。
安永2年
1773年
「雲龍図」を描き上げる「雲龍図」(東寺観智院旧蔵)
安永2年
1773年
圓満院えんまんいん 門主 祐常が亡くなるパトロンである祐常が亡くなってしまう。
安永4年
1775年
「平安人物志」に載る「平安人物志」に画家部第一位で記載され、京都四条麩屋町西入に住むと記録されています。
安永4年
1775年
「郭子儀祝賀図」を描き上げる「郭子儀祝賀図」(三井記念美術館蔵)
安永5年
1776年
「雨竹風竹図」を描き上げる「雨竹風竹図」(円光寺蔵)
雨、風も一切描かれてない竹林の屏風だが、そこには風が吹き雨が降っているように見えてきます。
安永5年
1776年
「藤花図屏風」を描き上げる「藤花図屏風」(根津美術館蔵)
応挙の代表作の一つ。「雨竹風竹図」同年に作られた作品で、「雨竹風竹図」が墨で作成されたものに対して、「藤花図屏風」は色鮮やかです。
その、複雑に絡み合った枝と自然の青く美しい藤の花が、何度も見返させ、消して飽きない画となっています。
安永6年
1777年
「 雪中水禽図」を描き上げる「 雪中水禽図」(個人蔵)
円山応挙のもとに弟子たちが集まる
(円山派時代)
このころ、円山応挙の名前は各地に名を馳せていました。
そのため、弟子になりたいと門戸を叩くものが多くなります。
弟子が増えたことで、円山派という一つの工房となります。
工房となると一人でできない仕事もできるようになりますので、屏風よりも大きな障壁画の仕事を受けるようになります。
天明元年1781年「 紅葉に孔雀図」「桜に孔雀図」を描き上げる紅葉に孔雀図」(西新井大師蔵)
雪のような透き通った体。最初に孔雀図を描いてから10年の年月が経過した作品。「桜に孔雀図」にでる色彩の鳥がうずくまり、春は眠り、冬が来ることを現しているように感じる。
「桜に孔雀図」(西新井大師蔵)
紅葉に対して、桜の対をなす孔雀図。
桜は、満開でなく少し葉が出てきている。
そこから春のうららかな日を想像させる。
天明元年
~寛政7年
1781
~1795年
「金刀比羅宮」障壁画を描く(15年間)金刀比羅宮(香川県仲多度郡琴平町)
天明の大火の影響で、15年の時をかけての作成となりました。
円山派の作品群。
応挙が亡くなったあとも、円山派で仕事をしています。
天明3年
1783年
「水仙図」を描き上げる「水仙図」(三井記念美術館蔵)
4代目 三井家当主高美の一周忌に送ったものとされる。
天明4年
1784年
「尾張国海部郡明眼院」障壁画を描く「尾張国海部郡明眼院」(愛知県海部郡大治町)
現在は、「応挙館」(東京国立博物館庭園)として移築されている。
天明5年
1785年
孔雀図」を描き上げる「孔雀図」(MIHO MUSEUM蔵)
天明6年
~寛政7年1786
~1795年
「大乗寺」障壁画を描く(9年間)大乗寺(兵庫県美方郡香美町)
円山派の作品群。
応挙死去の年まで、大乗寺の障壁画の作成を行っいました。
大乗寺のほとんどが、円山応挙(円山派)の手によるもののため、応挙寺と呼ばれます
天明6年1786年「雪松図屏風」を描き上げる「雪松図屏風」(三井記念美術館蔵)
天明8年1788年天明の大火天明の大火とは、京都の大火事。京都の8割は燃えてしまったと言われています。応挙の住む工房も燃えてしまい、既に完成しており大乗寺に納品を予定していた「松に孔雀図」を焼失してしまいました。現在大乗寺にあるものは、そのあと作り直した2回目の作品。
寛政2年1790年頃京都御所再建絵師として選ばれる京都御所が、天明の大火で燃えてしまったため、京狩野派、土佐派とならび、円山派が京都御所の再建として障壁画の仕事を受けました。
京狩野派、土佐派は、天皇のお抱え画家だったため、大変名誉なことでした。
寛政5年1793年病気この頃から病気がちとなります。
足と眼を患っていたと言われています。
毎年伏見にある梅渓うめだにへ梅の花を見に行くことを楽しみにしていたと言います。
寛政7年
1795年
「保津川図屏風」を描き上げる「保津川図屏風」(千總文化研究所)
応挙死去1か月前に書き上げた作品。絶筆となります。
寛政7年
1795年
7月17日
享年62歳死去
四条大宮西入悟真寺に葬られました。
墓碑を妙法院宮真仁法親王が書きました。

眼鏡絵(修業時代)

参考画像:眼鏡絵

虫メガネのような「覗き眼鏡」という凸レンズを嵌めた箱を使い、絵を見ると遠近法で描かれた絵が、立体的に見えます

当時、オランダから舶来したため、眼鏡絵に使用する日本画という物はありませんでした

そこで、尾張屋の店主 中島勘兵衛は、応挙に日本画をかいてくれないかと依頼をしました。

応挙は、「四条河原遊涼図」、「石山寺図」、「賀茂競馬図」、「円山座敷図」、「三十三間堂図」など京都風景の眼鏡絵を制作しました。

この、眼鏡絵の制作をする際に、西洋の遠近法を勉強し実力をつけたと言われています。

眼鏡絵は、左右が反転することから、原画及び図上の文字は左右反対に描いてありました。

作品は、木版墨摺りで、手で着色したものです。

画面には小さな孔を開け、薄紙を張って裏から光を当てると絵が揺らめくなどの工夫を応挙は行いました。

参考画像:google arts & culture 蔵 福岡市博物館

圓満院えんまんいん 門主 祐常ゆうじょうとの出会い(円満院時代)

江戸時代中期は、西洋、東洋から医学的、科学的な文献が輸入され、日本でも解体新書などの文献が一つのブームでした。

その一つに、本草学という草花の正確な挿絵(写実的な絵)と調合方法のなどを載せ文献(データーベース)を残すのが流行っていました。

祐常和尚もこれを作ろうと思い、画家を探していました。

二条家は、五摂家の一つですので、多大な力とコネクションを持っていました。

実は、この祐常和尚の姉が、115代目天皇の桜町天皇の妻でした。

ある日祐常和尚は、姉に画家を探していることを伝えます。

姉は夫である天皇にその話をすると、天皇の妹である 逸巌理秀いつげんりしゅう尼 がいる宝鏡寺によく出入りしている業者で尾張屋の応挙のことを耳にします。

そこで、紹介を受けて知り合ったとされています。

祐常和尚は、応挙に草花の写実的な画を書いてもらうように指示します。

そのためには、実際の草花をスケッチする必要があります。

このころから、スケッチを頻繁にするようになり、写実的な画が磨かれていきました。

京都新興勢力商人たちに人気が出た理由(三井時代)

新興勢力の商人たちは、京都が発祥でなく他の地で力をつけて成り上がってきた人たちでした。

そのため、画をこれまで見る機会も少なく、見る目も乏しかったのです。

そこで、応挙の作品は写実的でありパッとみてわかりやすいため人気を得たのです。

特に、商人たちは知識が無いがお金はあるため、商人は権力を示すため、大きなサイズの画、特に屏風の依頼が増えていきます

商人にも、一般人にも名が浸透し「平安人物志」に画家部第一位で記載されるほどになるのです。

きつねくん
きつねくん

藤 応挙と書いてあるけど、円山応挙のことだよ。

円山派の弟子たち(円山派時代)

円山応挙の名前が、「平安人物志」などに乗ると弟子になりたいと門戸を叩く者が多くあつまりました。

狩野派や、長谷川派と言った昔から続く伝統ある流派でなく、農民から出たという出自が弟子たちの心をつかみ、弟子を多く集めたのだと思います。

弟子が増えたことで、円山派という一つの工房となります

工房となると、一人でできない仕事もできるようになりますので、屏風よりも大きな障壁画(襖や壁などに描かれた作品)などの依頼を受けるようになります

一部屋や二部屋の話ではなく、家全体です。各部屋4面あることを考えると相当な労力が必要です。

それだけの人をまとめ、応挙の画を描かせたのだからそれだけの実力がある一派として、さらなる名声を挙げていきます。

きつねくん
きつねくん

尾張屋の主人から依頼された眼鏡絵を描いたり、祐常の依頼に従いスケッチをしたり大きな滝を描くなどの作品から考えると、真面目で、でも人が良かったのかもしれません。

そんなところが、弟子を集めたのかもしれませんね。

画の特徴

円山応挙と言えば、『写生』つまり、ありのままの姿をスケッチし人や物、場面を写し取ることを重要視していたことが挙げられます。

それまでの応挙以前の時代の作品を見ると、感性や精神に寄った作品が多いことが目につくと思います。

応挙の生きた時代は、西洋や東洋の写実的な文化が入ってきた時代です。

その影響を受けて、日本の文化と写実的な面を融合させた作品が多いことがわかります。

応挙は常に懐中に写生帖を忍ばせ、暇さえあればスケッチに余念がなかったようです。

そんな、円山応挙の作品は、スケッチされたモチーフを画面の中で再構成されています。

しかしながら、完全な写実的な画ではなく、東洋の昔からある技法も取り入れ完成されています。

伝統的な画題を客観的な視点で描き出されており、あたかもその風景の中ににいるように感じるように写し取った作品が特徴です。

花鳥

参考図:松に孔雀図(大乗寺蔵)円山応挙

畳に座り、襖を眺めると、部屋から外を眺めているような感覚にふとなります。

松が左上から右下へ、直線的に伸びています。葉は青々として、力強い生命を感じます。

また、羽を休めた孔雀が襖中央で、休む姿があり、静寂な時の流れを感じることが出来ます。

円山応挙は、花鳥図を多く残しています。

特に孔雀図は、名が売れる前から作成しており、何度も描かれています。

参考図:群鶴図 円山応挙
参考図:群鶴図 円山応挙

そのままの鳥の群れを描き、背景を一切書かない本作品。

複数の鶴たちの姿から、鳴き声や、水の音が想像から湧き出ます。

一羽一羽に、想像を膨らめることが出来ます。

それを見る人が、時を忘れるようなそんな作品ですね。

写実的で、誰もがわかりやすいのですが、その先の想像の余地を残すことで奥深い作品です。

参考画像:雪松図屏風 左 円山応挙 国宝
参考画像:雪松図屏風 右 円山応挙 国宝

雪が降り積もったばかりのような質感が伝わってきますね。

冬でも青々とした緑を残す松は「不老長寿」を示す縁起物として古くから襖絵に描かれてきました。

しかし、他の絵師の作品は松自身の力強さを前面に出しているのに対して、応挙の作品は生命の繊細さを現しているように思えます。

雪のなか、じっと春を待つ生き物の息吹を感じられます。

応挙の作品の中で唯一の国宝になります。

子犬

参考画像:狗児図 円山応挙

丸くてコロコロしていて、かわいくて。

子犬の柔らかな毛並みまで見て取れます。

また、それまで犬が主役で屏風に描かれた作品は例を見ず。

応挙の心を魅了した子犬の愛くるしさが、画から伝わってきます。

足のない幽霊

参考画像:wikimedia 円山応挙 幽霊図(お雪の幻)

幽霊には、足がない。

よく怖い話には、そのような幽霊が登場します。

じつは、江戸時代初期ごろの幽霊には足が描かれていました。

足がない幽霊は、円山応挙が発祥という説があります。

あるとき応挙の夢に、亡き妻が現れました。

その妻には足がなく、宙を漂っているではないですか。

写生画の大家として知られる応挙は、夢で見たこの妻の姿を、忠実に描いたのだといいます。

その後、応挙の幽霊画にならい、足のない幽霊画が数多く描かれていきます。

この作品よりも前の時代の浄瑠璃本の挿絵に脚のない幽霊が描かれていることが確認されています。

そのため、肉筆画で初めて書かれ広めたという意味で発祥という説です。

応挙自身の幽霊画はあまり残っていないのですが、このイメージは彼の弟子などに広まっていきました。

たぬきくん
たぬきくん

今にも出てきそう。

円山四条派

円山派は長男の応瑞が継いだが、応門十哲といわれる弟子たちの方が有名です。

弟子

円山応瑞 – 2代目

呉春・・・四条派の開祖、蕪村と応挙の画風を融合したとされ応挙の影響を強く受ける。

きつねくん
きつねくん

円山応挙の影響を強く受ける四条派をまとめて、円山・四条派とくくられることもあるよ。

でも、与謝蕪村の文人画(南画)を基礎としているため、別にしたりもするよ。

そのほかにも多くの弟子を輩出しています。

応門十哲

応挙の門人のうち、最も優れた10人。

  • 駒井源琦
  • 長沢蘆雪
  • 山跡鶴嶺
  • 森徹山
  • 吉村孝敬
  • 山口素絢
  • 奥文鳴
  • 月僊
  • 西村楠亭
  • 渡辺南岳

大乗寺(応挙寺)

応挙寺とも呼ばれる大乗寺。

そのすべてが、円山派によって描かれたものです。

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大乗寺は、天平17年(745年)に行基菩薩によって開かれた高野山真言宗のお寺です。 Daijyo-ji
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兵庫県香美町の高野山真言宗大乗寺に残された円山応挙とその一門の障壁画と、それらの織り成す宗教的思想空間(立体曼荼羅)をご覧いただけます。

円山応挙宅跡 地図

円山応挙の家があった場所。

今は、石碑と看板だけが残ります。

円山応挙宅址 · 〒600-8006 京都府京都市下京区 堺町東入南側
★★★☆☆ · 史跡

円山応挙墓 地図

円山家一族の墓があります。

悟眞寺 · 〒616-8161 京都府京都市右京区太秦東蜂岡町5−1
★★★★☆ · 仏教寺院

平安人物志(閲覧)

ネット上から、平安人物志を閲覧できます。

平安人物志

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